clavicle 〜鎖骨〜



 正直、期待なんかしてなかった。アマチュア・バンドのライブなんて。

「もう一枚あるんだけどさ。香緒莉お願い、付き合ってっ」
 昨日の昼休み。学校の教室で、友達の綾花があたしの顔色を伺いつつお弁当箱の影からスイッと差し出したのは、翌日行われるライブのチケットだった。
「謹んでご遠慮致します。あたし、アマチュア・バンドなんて嫌いだもん」
 差し出されたチケットを中指の先で押し返しながら、丁寧かつキッパリとお断りする。お互いの指で押し合った挙句、チケットは中央が盛り上がって山のように湾曲した。チケットにプリントされた一番人気のバンドのボーカリストらしい人の顔が、ぐにゃりと歪む。
――ヘンな顔――
 あたしだって、商業バンドのライブなら、どんなに無名のバンドだって付き合ってあげるつもりだ。でも、アマチュアだけはご遠慮申し上げたい。
 あたしが彼等に厳しいのには、訳が有るのだ。


 あたしには、今年二十一歳になる兄貴がいる。ご多分に漏れず中学生の頃から音楽に興味を持ち始め、友達を誘って自分達のバンド『MISTY(ミスティ)』を結成した。そして大学生になった今、愛用のギター片手にあちこちのライブハウスで行われるアマチュア・ライブに、トリ一個前で出られるほどの実力がある……らしい。これは本人の口から聞いた評価なので、真偽の程は定かではないのだが。名前が遼一だから、この世界ではリョウと呼ばれている。
 バンド活動に熱を入れるあまり、学業がおろそかになって、兄貴は一回留年している。それが決まった時、母さんが台所で深いため息をついているのをあたしは偶然見てしまったのだ。丸めた背中が、チラチラと瞬く蛍光灯の下でとても小さく見えた。
 学費だってバカにはならない。それを兄貴は遊びのようなバンド活動の為に、一年分ドブに捨ててしまったようなものだ。
 だからあたしは、いくら兄貴からチケットを売ってくれと頼まれたって、友人に売ることはおろか、自分が見に行くことすらしないと決めた。その度にきっと、母さんの背中を思い出すから。
 あれから一年余り。以前は時々兄貴達の楽屋に出入りしては買出しなどの雑用をこなしたりしていたが、そういった事もしなくなった。高校一年生だったあたしも、進路に向かって受験体勢に入る年になっていた。  


 大した実力もないのに、無駄に時間を過ごしている彼等。
――アマチュア・バンドのライブなんて、その程度のものよ――
 あたしは腹の中で、そんな連中に愛想をつかしていた。



「もしもーし、香緒莉? 榛名香緒莉さーん?」
「あ?」
 チケットにプリントされたボーカリストの妙に歪んだ顔に視線を落としたまま、あたしはどうやら自分の世界に浸っていたようだ。お弁当箱の向こうから、綾花があたしの顔を覗きこんでいる。
「うちの親が厳しいのは知ってるでしょ? ライブなんて、友達と一緒でなきゃ行かせてくれないんだよぉ。今回はどうしても一緒に行く子が見つからなくてさ、アンタだけが頼りなのに」
 綾花がウルウルした目であたしを見つめる。
「こないだのテストのヤマ張ってあげた恩を忘れたのかーっ」
 うっ、綾花ってば痛い所を突いてくる。確かにヤマは大当たりで順位は格段に上がったのだ。親も大喜びで、かねてから希望していた美術関係への進学も、ようやく許してもらえた……ということを、熟知していての泣き落とし作戦だ。
 結局綾花のお願い攻撃をかわし切れず、あたしは半ば引きずられるようにしてライブに連れて来られるハメになった。


 このライブハウス、通称『ハコ』の中は結構広く、施設の説明書きによると、スタンディングで五百人位のキャパがあるらしい。入り口でチケットを見せて中に入る。薄暗い階段を降りたところがロビーになっていて、奥に会場へ通じるドアがあった。
 中に入ってしまうとなかなか外に出られない。人ごみを掻き分けながら進むのは至難の業だ。途中で出なくてもいいようにお手洗いに行ったりしていたので、あたし達が会場に入った時には既に一組目のバンドの演奏が終わるところだった。
「ゆっくりし過ぎたかな。演奏終わっちゃったよ?」
 演奏の余韻が消えかかると、会場から大きな拍手が沸き上がる。あたしは綾花の耳元に顔を近づけて怒鳴った。こうでもしないと、相手に話が伝わらない。普通に話す程度の音量では、まわりの音にかき消されてしまうのだ。あたしの声が届いたらしく、綾花はヘラッと笑った。
「大丈夫。私のお目当ては、トリのバンドなんだから。そこのボーカルがまた、私のツボにクリーンヒットしたんだな」
 そう言うと、綾花はステージの上に目を向けた。その視線の先では、既に二組目のバンドの演奏が始まっている。彼女は他の友達を誘って何度もこういったライブに来ているのだろう。贔屓(ひいき)のバンドではなくても、その場の雰囲気と演奏を楽しむ術を身に付けている。
 綾花の熱っぽい横顔を眺めながら、以前はあたしもこうだったんだなぁ、なんて考える。
 兄貴が勉強の方も頑張って留年なんかしていなかったら、今頃あたしもこんな風にバンドの演奏を楽しんでいたのかも知れない。楽しいとか、どこのバンドの誰がいいとか思う前に、あたしはこの世界から身を引いてしまったから。


 演奏は進み、トリのバンドがステージの上に姿を現した。歓声が今までとは格段に違う。それだけ人気の度合いが他とは違うのだろう。
 ステージの上には、五人の人影。みな白っぽいシャツに黒のパンツを着けている。全員シャツの裾は外に出しているが、きっちり襟元を留めて細身のネクタイを締めている人もいれば、前をはだけた人もいる。バンド全体のイメージは統一しながら、各々の個性を上手に引き出しているように見えた。
『ダンッ!』
 それまで客の歓声を聞いているだけのように静かだったメンバーの間から、いきなり大きな音が生まれた。
 ドラムが小気味良いリズムを刻み、それにベースが微妙にアレンジしたリズムを刻みながら音階の色を添える。上手(かみて)ギターがうねるように印象的な旋律を奏で、下手(しもて)ギターが、トゲトゲした感じになりがちな音をふわりと薫るような優しい印象に仕上げていた。ドラムと同期のバランスも上手く計算されていて、ブレイクも上手く決まっている。どの音も主張し過ぎず、かといって他の音の影に隠されてしまうわけでもない。全てが合わさって、より高い次元の音を創り出している。
 実力のあるバンドにしか出せない音だった。
 短めの黒髪のボーカルが、ステージの上を右に左に動きながら旋律に言葉を乗せていく。あたしの心に、音が突き刺さった。猛禽類の爪が喰い込むように、魂が鷲掴みにされる……そんな錯覚に、あたしはフラリとよろけてしまう。
 こんな音は、今まで聴いたことがなかった。
 息苦しい感覚に襲われながら、再びステージの上に目を向ける。上手ギターのソロが始まっていた。色を抜いているのか、金色っぽい髪にサングラス姿のギタリストが、ステージ中央に出て熱っぽく演奏している。
 ねっとりと絡み付くようにリズムをずらしたり、ツーンと抜けるような高音を弾き出したり……。聴衆はみな、彼のギターに魅了されている。
 ギターは赤っぽいグラデーションのボディの、確か『レスポール』というモデルだ。古くからある形で、根強いファンを持っている、と兄貴に聞いたことがあった。ギタリストの兄貴は、昔はよくあたしにギターの話をした。あたしはその半分も理解していなかったけれど。
 長めの金髪から続くはだけたシャツの襟元で、鎖骨がライトに照らされてやけに色っぽく見える。黒い革紐の先に下がったペンダントのトップがキラリと光り、汗で張り付いたシャツから体のラインが透けていた。色の濃いサングラスのおかげで、ギタリストがどこを見ているのかわからない。
 あたしの目は、彼に釘付けになった。
 相手の視線が見えないと、人は大胆になるらしい。あたしは無遠慮ともいえる眼差しで、ずっとギタリストを見ていた。ソロが終わって彼がステージ端に移動しても、ずっとその姿を追っていた。


 音に、酔っている。
 彼に、酔っている。


『ダンッ、ダンッ、ダンッ!』
 大きな音が三回続いて、急に演奏が止んだ。一瞬の静寂。続いて、割れんばかりの拍手が沸き上がる。
 拍手が次第に揃ってリズムを刻み始め、アンコールを促す。観客はなかなか立ち去らず、一旦ステージから降りたメンバーが再び姿を現すまで続いた。
 さっきのとは違う曲をもう一曲披露し、メンバーはまたステージを降りた。煌びやかな音の余韻を残したまま、今度はアンコールの拍手にも応えはなかった。


「あたし、もう一度お手洗いに行って来る」
「じゃあ、ここだと邪魔になっちゃうから、出口で待ってるね」
 会場を出てすぐ綾花に断りを入れると、あたしはお手洗いに立った。入った時は他にも何人かいたのだが、あたしが出る頃には誰もいなくなっていた。多分、お目当てのバンドの『出待ち』でもするつもりなのだろう。
 蛇口に手を近づけると、自動でお湯が出るようになっている。勢い良く流れ出る水音を聞きながら、あたしはふと、顔を上げた。
 壁に据え付けられた大きな鏡の中には、あたしが映っている。頬が上気し、ほんのり朱に染まっている。あんなに嫌がっていたライブだったのに、今は心が震えるほど感動している。
「はあっ」
 深く息を吐く。胸の中に溜まった興奮を少しずつ吐き出すように、長く息を吐いた。
 気持ちいい。でもなんだか気持ち悪い。相反する感情があたしの中に生まれて、正直混乱してしまった。
 あたしは手を蛇口にかざしたまま、しばらく水の流れる音を聞いていた。
「そろそろ行かないと。綾花が待ってるし」
 手を拭きながらお手洗いを出たところで、何だか違和感を感じる。あたりを見回してみて、それが照明が少し落とされているからだと気づいた。照度の落ちた眺めは、さっきと雰囲気が違って見える。そのせいか、どちらに行ったらいいのかわからなくなってしまった。
「自慢じゃないけど、あたし方向音痴なんだよ」
 入る時は人の波に乗っていたからいいけれど、今はみんないなくなってしまった。蜘蛛の子を散らすように、とはこの事だ。あたしはどちら側から入ってきたのだろう。第六感に頼ろうにも、有るか無いかわからないようなあたしの第六感なんて、もともと当てになるわけはなかった。
 適当に歩いてみる。こちらだろうと見当をつけてドアを開いたが、ぽっかりと四角く切り取られた先には薄暗い廊下が続いているだけだった。
「違う……ような気がする……けど」
 心細くなって、振り返る。背中越しに見た、今来た路は、この先よりももっと暗く見えた。
「やっぱ、こっち」
 明かりがあるということは、人がいるということだ。係の人に出会えれば、あわよくば出口まで案内してくれるかも知れない。
 勢いづいて折れた先の角が、ボウッと光って見えた。微かに人の気配がする。
「あの……」
 警戒されないように、声を掛けながら角に近づく。その声が思いのほか響いて、あたしは自分でもドキリとした。
「ふーっ、何?」
 何かを吐き出すような音の後に、返事があった。
 煙たい。この人、煙草吸ってる。
「あたし迷っちゃったんですけど……出口はどちらか教えて頂けませんか?」
 ひょい、と顔を覗かせて、あたしは驚いた。まず視界に入ってきたのは、みごとな金髪。長めで肩ぐらいまで伸ばされている。
「何?」
 サングラスを外しながら、彼はもう一度ぶっきらぼうに聞き返した。パラパラと額にかかった前髪の下から覗く、深緑色の瞳。カラコンじゃない。サングラスを外したその瞳は、正真正銘のグリーン・アイだ。
――この人……あのギタリストの人?――
 思い当たった途端、心臓がギュッと縮み上がった。胸の中でくすぶっていた興奮の余韻が、また炎を挙げて甦って来そうになる。
 彼は廊下に腰を下ろし、サングラスを床に無造作に転がしたまま、あたしを見上げて煙草に口を付けた。その横には、あの赤っぽいグラデーション・カラーのレスポールが壁に立て掛けられている。


「こんな単純な造りのハコで迷ったのか?」
 呆れたように言い放つと、彼はあたしの上で値踏みするように視線を走らせた。
――し……失礼なヤツ――
 何だかステージの上での印象と違う気がする。別にフレンドリーな感じだったわけではないけど、今ほど意地悪な印象でもなかった。
「アンタさ、ライブの間、ずっと俺のこと見てただろ?」
 再び煙を吐き出しながら、彼は薄く笑った。
「えっ?」
 一言発したきり、あたしは次の言葉が続かなかった。
 どうしてそんな事、知ってるの? そりゃ、見てたわよ。でもそれは、向こうからは見えてないと思ったからで……。
 何か言わなきゃ。そう思ったら、焦って憎まれ口が飛び出そうになる。
「別にあなたの事なんか……」
「ハル」
 あたしの言葉を途中で遮って、彼は言った。
「ハロルド真鍋、縮めてハル。俺の名前、な」
 ニコリと笑った顔はとても可愛らしくて、つい今しがたまでの意地悪な印象と随分違ってみえた。コロコロと変わる表情。一体この人は、いくつの顔を持っているのだろう。
 改めて気づくと、自己紹介されてしまっていた。『アンタ』なんて呼ばれるのもいい気持ちじゃないし、向こうが名乗ったらこちらも名乗るのが大人の常識だよね。
 あたしは一つ息を吸った。
「あた……あたしは」
「カオリ、だろ?」
 え? ええっ?
 あたしの頭の中は、牛乳風呂の中で溺れたように真っ白になった。


 どうしてあたしの名前を知ってるの。こんなライブに来たのなんて、久しぶり。あの頃の関係者に、こんな人いなかったよ。大体こんなに目立つ容貌の人を簡単に忘れるわけないじゃない。
 ライブじゃないとしたら、じゃあ、どこで? 名前を知られるって事は、相当身近にいたって事だよね。やっぱりこんな目立つ容貌の人を簡単に忘れるわけないじゃない。


 あまりキャパの無い脳細胞を総動員してみたけれど、あたしの記憶の中に彼の姿の欠片さえ見つけることはできなかった。
「あの、ハルさん」
「ハルでいい」
 パンツのポケットから携帯用の灰皿を取り出すと、ハルは煙草の火を消してその中に放り込んだ。
「前に会ったこと、ありましたっけ?」
 営業用の笑顔を作って小首をかしげ、敵意を持たれないようにたずねてみる。
 何も答えがないまま、数十秒が過ぎた。いや、実際はもっと短かったのかも知れない。
 その間、あたしの唇は最後の『け』の形のままで、首は斜めにかしげたままだ。頬の筋肉が強張って、いい加減、首の筋がつりそうになった。
「会ったこと、あるよ」
 床に無造作に置かれたサングラスを拾い上げ、ハルが立ち上がった。サテン地のパンツの皺を手のひらで直すと、中腰になって壁に立て掛けたレスポールを手に取る。
「えーと、どこで? ライブかなんか……かな」
 意外と背高いんだこの人、なんて変なことに感心しながら、あたしはそんな彼の動作を目で追っていた。まるでステージの上の彼に吸い寄せられてしまった時のように。
「そ、ライブの楽屋で。アンタさ、『MISTY』のギタリストの妹だろ」
「そうですけど」
「俺、ギター小僧でさ、よくライブ観に来てたんだよ。兄貴分のバンドの手伝いもした。そん時にアンタのこと、見掛けたの。『カオリちゃーん』なんて呼ばれて、結構メンバーに可愛がられてたじゃない。どうして最近来なくなっちゃったの?」
 痛いところを突かれた。まさか兄貴が留年して愛想を尽かしたからです、なんて、身内の恥をさらすような事は言えない。
「アマチュア・バンドはあんまり好きじゃなくて」
 目を伏せて下を向き、そこに至った経緯は省略して、肝心なところだけを伝えた。
「好きじゃないのに、今日はライブ来たんだ?」
 うーん、これも痛い。
「友達に強引に誘われたんです。はぐれちゃったんですけど」
「カオリは方向音痴だもんな」
 すかさず、そんな言葉が飛んでくる。ハルを見ると、視線を逸らして口元を押さえ、懸命に笑いをこらえているって感じだ。肩が微妙に上下している。
「『MISTY』の楽屋と間違えて、よく俺達の楽屋に入って来ただろ。正確には兄貴分のバンドの楽屋だけどさ。『MIGHTY(マイティ)』ってバンド名だったから、間違え易いとは思うけど。スタッフがわざわざ入り口の右と左に楽屋を分けてくれたのに、それでも間違えて入って来るんだもんな。マックいっぱい抱えてたり、サンドイッチの袋を両手に提げてたこともあったっけ」
 堪え切れなくなったのか、語尾が震えている。
 でも、ちょっと待って。そんなに至近距離で会ったのなら、覚えているはず。いくらなんでもこんな容貌の人を忘れてしまうほど、あたしの脳細胞は末期状態じゃないはずだ。
「あたし、全然覚えてないんですけど。ホントに会ってます?」
 ちょっと言葉にとげがあったかも知れない。でもハルはそんなことを気にする風でもなく、レスポールを大事そうにケースにしまって持ち上げた。
「髪、黒く染めてたし、カラコンで目の色も黒く変えてたからな。俺こっち生まれのハーフだから、いちいち『日本語お上手ですね』なんて言われるのも面倒くさかったし。判んなくても仕方ないさ」
 ハルは顎をしゃくって、あたしについて来るように促した。
「帰るんだろ?」
 自分は先にたって、さっさと歩き出す。置いていかれないように、あたしも慌てて後について歩き出した。


 大股で歩く彼は、あたしの方を振り返るでもなく、自分のペースで歩いていく。そのくせ遅れて角を曲がった時には、ちゃんとその先で立ち止まって待っていてくれた。
 俺様的な人かと思ったら、そうでもない。ベタベタした気遣いをされるよりは、却ってこの方があたしの性に会っている気がする。
「ハルさん一人なんですか?」
 他のメンバーと合流するわけでもなく、彼は一人でスタスタ歩いていく。普通ライブが終わると、打ち上げと称する飲み会があるはずなのに。
「他の奴らは打ち上げ。俺はちょっとあって、今日はパス。それから……」
 ハルは急に立ち止まった。遅れまいと速足で歩いていたあたしは、勢い余って彼のシャツの背中に顔面から体当たりしてしまう。
「ハルさんじゃなくて、ハル。『おハルさん』みたいで、ヤだ。それと『です、ます』っての、やめてくんないかな。肩がこる」
「はいぃ……」
 推定一ミリぐらい低くなってしまった鼻を押さえ、あたしは短く返事をした。
 彼が立ち止まったのは、そこにドアが有ったからだった。ガチャリとノブを回し、外側に開く。外気が頬に触れ、いつの間にか夜が深まっていたことを感じさせる。
「ほらよ、外に出た。関係者用の出入り口だけど。友達、待ってるんじゃないのか?」
 そう言われて、あたしは慌てて携帯の電源を入れた。会場で鳴ったって、どうせあの音量に掻き消されてしまうだろうけど、一応会場内では電源を切ることになっている。ウェイクアップ画面の次に出てきたのは、未読メールのマークだった。
『香緒莉どこにいるの? もうみんないなくなっちゃったよ』
 から始まって
『ずっと待ってるんだけど』
『ひょっとして、また迷った?』
『あと十分だけ待つ』
 と続き、
『悪いけど、ここ物騒だから、先帰るワ』
 で締めくくられていた。
「……置いていかれた」
 初めて来たライブハウスだ。往きは綾花に任せっ切りだったので、どうやってここまでたどり着いたかなんて、判らない。一人で帰れる自信は……多分、百二十パーセント、無い。
 片手で携帯を折り畳む。カチャ、と切れのよい音が、なんだかとても大きく聞こえた。あたしの表情から察したハルが、腰をかがめてこちらの顔を覗きこんだ。
「捨てられたのか」
「何、その言いかた」
 一応言い返してみたものの、当たっているだけに強くは言えず、語尾はほとんどため息にすりかわってしまう。
「駅まででいいな?」
 え? もしかして、送ってくれるつもり?
「飲むつもりだったから、あいにく車とかで来てないんだ。だから歩きになるけど」
「あ……い、いいよ、それで。とにかく駅まで行ければ」
 暗い夜道を一人で帰ることを思えば、歩きだろうが連れがいるに越したことは無い。あたしは小走りでハルに並んだ。


 白線で歩道のスペースを区切ってはあるけれど、ガードレールで仕切ってあるわけではない。あたし達が歩くすぐ横を、結構なスピードで車がすり抜けて行ったりする。
「カオリはこっち」
 そう言うと、ハルはあたしをぐいっと引っ張って、自分が車道側を歩き出した。
「フェミニスト?」
 並んで歩く大きな影に向かって、少し茶化して言ってみる。あたしの目線がちょうどハルの肩のあたり。月が雲間からぼんやり覗いて、彼の鎖骨をきれいに浮かび上がらせた。革紐の先のペンダントトップが、キラリと光ってそのラインを強調している。
 ステージ上での色っぽい彼を思い出して、またドキリと心臓が跳ねた。
「俺が恥ずかしいんだよ」
 ハルはギターケースを車道側に持ち替えた。
「そんな気遣いもできないヤツだ、と思われる方が恥ずかしいだろ」
「そ……そっか」
 不意にこちらに目を向けられて、あたしは慌てて視線を逸らした。
 さっきの音の余韻が、またあたしの体の中で駆け回りはじめた。細胞の一つ一つが、あの音を覚えているみたいだ。ビジュアルもサウンドも、全てが観客を酔わせる美酒みたいに、体の中にしみこんでしまっている。彼の視線を受けて、スイッチが入ってしまったようだ。


 正直、期待なんてしてなかった。アマチュア・バンドのライブなんて。
 正直、どうしようもない程酔わされてしまった。アマチュア・バンドのライブなのに。


「……俺の音、どうだった?」
 少しだけ声のトーンを落としてハルが聞いた。視線を戻して、まっすぐ前を見つめている。足音に合わせて、ギターケースの持ち手が(きし)んだ。
「さっき、アマチュア・バンドは好きじゃないって言ってたよな。だったらどこかのバンドの贔屓(ひいき)ってわけでもないってことだ。公正な立場で、俺の音をどう感じたか教えて欲しいんだけど」
「どうって……」
 あたしは彼の問う言葉の裏に、何か迷いのようなものを感じた。何と言ったらいいのか判らなくて、少し言いよどむ。
「事務所と契約しないか、って話がある。メンバーは、すぐにでもその話に飛びつきたいらしい。でも俺は……」
「納得してないの?」
「ああ。俺達の音なんて、まだまだだ。今契約して音源出したって、所詮一発屋で終わる。もっとこっちで勉強することはたくさんあると思うんだ。何も音楽の勉強だけじゃない。いろいろ経験して、自分の中に吸収して、それでいい詞も書ける。テクニックだけが良くても駄目なんだ。それに乗せる言葉にも、もっと命を吹き込めるようにならなくちゃ」
 あたしは驚いた。
 ハル、凄いよ。契約の話が来たら、すぐにでも飛びつきたいって思うだろうに。だけどそれを断って、もっと自分を磨こうとしている。アマチュア・バンドの中にも、こんな人がいるんだ。
 それで最初に会った時、ちょっと不機嫌に見えたのかな。きっとその事で、言い合いにでもなって……。
「それで、メンバーと喧嘩でもした?」
「え?」
 ハルは不意を突かれたように言葉を切り、あたしの方に目を向けた。
「どうしてわかるんだ?」
「お酒飲むつもりで乗って来なかったんでしょう? なのに打ち上げに行かずに一人で帰るなんて、おかしいもん」
「ああ……そっか」
 下を向いて、ハルは少し照れたように笑った。背が高くてあたしより年上のはずなのに――車の免許を持ってるってことは、年上だと思う――ちょっとだけ子供っぽい顔になる。
 あたしは月を見上げて、小さくうなずいた。
「ハルの音、凄いと思った。アマチュア・バンドの演奏であんなに鳥肌が立ったの、初めて。心にね、なんて言ったらいいのかな……そう、音が突き刺さる感じ。それがちっとも嫌じゃなくて。心臓をキューって掴まれたみたいになって、あたし立っていられなかったもん。ライブ終わって時間経つけど、今でも体の中であの演奏が駆け回ってる。音に酔っ払っちゃった感じって言うのかな。みんなの音がちゃんと調和してて……ボーカルの人がそれに言葉を乗せると、もっと魂に響いて来た」
 隣を歩くハルが、息を呑んだのが判ったような気がした。
「あたし、ほんとはアマチュア・バンドのこと、心の中で少し軽蔑してたんだ。『時間を無駄に使ってる』なんて思い込んで……。あたしの兄貴さ、ギタリストやってるでしょう? バンドに熱中し過ぎて大学留年して、母さんに悲しい思いをさせたんだ。それでアマチュア・バンドのことが好きじゃなくなっちゃった」
 何故だろう。身内の恥をペラペラ喋っちゃってる自分がいる。
「だけどね、今日のライブ見て、それからハルの思ってる事聞いて、あたしも考え変わったよ。アマチュアの中にもこんなに真剣にやってる人がいる。兄貴みたいに時間を無駄にしてる人ばっかりじゃないんだって」
 本当に凄いと思った。ハルの奏でる音は、今もあたしの体の中で駆け回っている。それは彼の考えを聞いて、益々色鮮やかに蘇ってくる。そんな思いを、あたしはどうしても彼に伝えたかった。
「違う」
 突然、ハルの口調がたしなめるようなものになった。あたしは足を止めて、ハルの顔を見上げた。
「リョウは……カオリの兄さんは、時間を無駄になんかしてないよ。最近のライブ、行ってないだろ? 凄いんだよ。ウチのバンドがいなけりゃ、絶対にトリが務まる。俺達だって負けちゃいないけどな。リョウもプロ目指してるんだって。ちらっと話をした時に聞いた。俺、リョウが留年したことも知ってたよ。でもそれもいい経験だったって。あれが無かったら、今頃こんなには力を伸ばしてはいなかったかも知れないって言ってた」
 驚いた。
 ハルが兄貴のこと知ってたなんて。それも、身内のあたしよりも、ずっとよく知っている。プロになりたいなんてこと、兄貴はあたしに一言も言わなかった。
 もっともあれからあたしもライブに行かないし、バイトで忙しい兄貴とは生活時間帯が違ってなかなかゆっくり話す暇もないのだけれど。
「リョウも、無駄に時間を使ってたわけじゃないんだ。さっき俺が言ったみたいに、いろいろ経験してそれを全部バンドに注ぎ込んでる。そりゃ留年っていったら、お金もかかるし大変なことだと思う。だけど、彼は決してそれを無駄にはしてないよ。一度ライブに行ってやるといい。最近のリョウは、いい音出してる」
 ハルは空いている方の手をあたしの頭の上に乗せた。大きな手。子ども扱いされてるみたいだけど、それがちっとも嫌じゃなかった。
「ふうん……行ってみよっかな」
 少々面白くはないけれど、今日のあたしはなんだかアマチュア・バンドに対して寛大だ。あんな演奏を聴いたあとだからだろうか。


「あれが駅。あのハコから一番近い駅だから、多分ここでいいんだろ?」
 ハルが指差した先には、駅名の書かれた表示灯が大きく光っていた。
「あ、そうそう。この景色、見覚えある」
 あたしは記憶に残っている風景に出会えたことで、ホッと胸をなでおろす。
「ありがと。おかげで助かったわー」
 隣のハルを見上げて笑顔を作り、そこであたしは「あっ」と気付いた。
「ひょっとして、ハルは遠回りだった?」
「大丈夫。一駅遠くなっただけだから。俺のアパート、反対方面」
「うわ、やっぱり遠回りさせちゃったんだ。ごめんね」
 顔の前で手を合わせ、上目遣いにハルの表情を伺う。別に迷惑そうな様子でもなかったので、あたしは唇の端を少しだけ上げて、媚びるような笑顔を作ってみた。


「わ、ヤバ」
 あたしの背後に視線を走らせたハルが、突然小さく呟いた。あたしは手首を掴まれ、建物の影に引っ張り込まれる。
「え、何? どうしたの?」
 彼の体の脇に引き寄せられ、あたしの心拍数は急に跳ね上がった。
「あそこにいるのは、俺達のバンドについてるファンの子。結構過激でさ、ステージ以外で出会うと、ちょっと面倒なことになる」
 見れば女の子達が五人、凝った造りのスカートの裾をヒラヒラさせながら、駅の構内に吸い込まれて行くところだった。


「あの……そろそろこれ、離してもいいんじゃないかな」
 彼女達が見えなくなってからも、ずっと手首を掴まれたままだったことに気づく。跳ね上がった心拍数は少しは低くなってきたけれど、それでも頬が熱かった。
「嫌」
「え?」
 ハルは掴んでいた掌を少し緩めると、すっと下ろしてあたしの掌を握りなおした。
 あの……。これって、手ぇつないでませんか?
「携帯の番号とアドレス教えて」
 ぜんぜん悪びれる様子もなく、ハルは真っ直ぐあたしの目を見て言った。
「女の子みんなにこんな事言ってるの? だったら隠れてないで、あのファンの子達に言ってあげればいいのに」
 あたしは少しがっかりした。女の子とみれば見境無く声を掛ける、そんな人には見えなかったのに。
「違う。ライブ見に来てくれた子にこんなこと言ったの、初めてだよ。さっきの俺達の音の感想聞いて、『あー、もっとこの子とこんな話したい』って思った。なんか、離れたくない感じ。このまま会えなくなるの、すっごく嫌になって……だから、教えて?」
 かなり恥ずかしいセリフをさらりと言ってくれる。
「それに……カオリも俺のこと、気になってるだろ?」
 そう言って、ハルは繋いだ手を持ち上げた。
「別に気になってなんかないもん」
 その手を振りほどくこともできたけれど、何となくそれも今の自分に素直じゃない気がして、彼のなすがままになっている自分がいた。でも、言葉だけは勝手に憎まれ口になる。
「うそ。気になってる」
「なってない」
「だって、ライブの時、ずっと俺のこと見てた」
「見てないって」
「見てたよ。ちゃんと知ってる。俺もずっとカオリを見てたから」
 しっかりと視線を合わせ、ハルは少し腰をかがめる。さっきよりお互いの顔の距離が縮んで、せっかく鎮まりかけていた心拍数がまた一気に跳ね上がった。
 バレてる。これ以上の言い逃れはできそうにない。
「見てたのは認めます」
 あたしが白状すると、途端にハルの顔が緩んだ。


 ファンの女の子達が行ってしまった頃合を見計らって、あたし達は切符を買って構内に入った。
 ハルとあたしは反対方向。ひとつのホームの両側で、それぞれ上りと下りの電車に分かれる。
「俺のどこがよかった? 音?」
 ハルが期待している答えはそれか。あたしは何でも見透かしたような彼に、少しだけ意地悪したくなった。
「鎖骨」
「はぁ?」
「だから、鎖骨。ライトに照らされて、とっても綺麗だったの」
 彼が何も言い返せないのを見て、あたしはふふっと笑う。友達と遊びで作った名刺がスケジュール帳にはさんであるのを思い出して、それを引っ張り出した。
「はい、これがアドレスで、これが番号。またライブに行くよ。ハルの鎖骨を見に、ね。それと……」
 まるでドラムで打ち出したようなリズミカルな音を響かせて、あたしの乗る電車がホームに入って来た。
「兄貴のライブも行ってみるよ。ありがと、ハル」
 あたしはくるりと身を翻して、電車に乗り込んだ。ドアの近くに立って、ハルに向き直る。
 あたしの名刺を手にしたままのハルが、閉まりかけたドアの向こうで微笑んだ。
「電話する」
「うん」
 完全にドアが閉まり、電車が動き出す。ホームのライトに照らされた彼の鎖骨は、やっぱりとても色っぽくて綺麗だった。