〜 a kiss 〜
「うー。頭痛ぃ」
瑞樹は起きるそうそう頭を抱えた。ここ三日ばかり、起きぬけに頭痛がする。朝の支度をして大学に行く頃にはすっかり治っているのだけれど……。
「あんまり続くようなら病院に行かないとダメかな」
ガンガンともズンズンともつかない痛みをなだめながら、瑞樹はため息をついた。
待ち合わせのハンバーカーショップ。入口のドアに手をかけながら店内をのぞくと、
夏生が窓際の席で口をパクパクさせて手を振った。
「お、は、よ、う」
声こそ聞こえなかったが、夏生の口はその言葉を形作っている。
今日は休講日。夏生の大学も休講日だったので二人はここで待ち合わせをしていた。
瑞樹はこの春、念願の音大に入学した。夏生はその二年前、地元の四年制大学に入学している。瑞樹がまだ高校生に毛の生えた程度の
風貌なのに対して、夏生はもうすっかり口紅の似合う大人の女性になっていた。
「それでね、教授の声が子守唄代わりに聞こえちゃって」
夏生がクスクス笑う。瑞樹はそのクルクルとよく変わる表情を眺めながら、幸せに浸っていた。
あの日。弟の直樹に体を譲られてから約三年。瑞樹は少々の罪悪感に囚われながらも精いっぱい生きてきた。逝ってしまった直樹の分も一緒に生きるかのように。
「瑞……じゃなかった、直樹の方はどう?」
夏生は時々名前を呼びなおす。瑞樹はすっかり『直樹』と呼ばれる事に慣れてしまったけれど、それでは『瑞樹』が可哀相だと言って二人だけの時はそちらの名前で呼んでくれる。それで人前でも時々『瑞樹』と呼んでしまって言い直すのだ。
「うーん、西洋音楽史が辛いな。オレ、歴史は苦手だから」
瑞樹は、その端正な顔を少々歪ませて苦笑いした。
「いいわよ、直樹は」
夏生はクスクスと笑う。
「もともと頭いいんだから。アナタの『苦手』は私の『得意』レベルの
範疇なのよ」
二人は他愛も無い会話を続けながら、ハンバーガーで遅い朝食を続けた。
店を出て近くの公園を歩く。噴水や木陰のベンチがあって、地元誌にデートスポットとして紹介される程の公園だ。二人は噴水が良く見える特等席のベンチに腰掛けた。水しぶきがキラキラ光って、夏が近いことを告げている。太陽の光もだんだん力を増しているようだ。もうすぐ夏生の誕生日……。
「オレが大学卒業して、ちゃんと職についたら一緒になろう」
瑞樹が、そう夏生に言ったのは三日前。うつむいて耳まで真っ赤に染め上げて、無言でうなずいた夏生。夏生もこんどの誕生日で二十一歳。女性ならそろそろ『結婚』について真剣に考え始める頃だろう。年下の瑞樹は、ちゃんと言葉にして安心させてあげたかった。そういえば……。
その日からだ。頭痛が始まったのは。
まさかこの体に自分の魂が馴染まなかったなんて事はないだろう。三年間も生きて来られたのだ。じゃあ一体何なのだろう?
瑞樹はふいに言いようのない不安にかられた。
「……!」
突然、するどい痛みが頭の中を駆け巡る。今までとは比べようの無い程の痛み。瑞樹は頭を抱え込むように丸くなり、そして……。
意識が遠のいていくのを感じた。そばで夏生の悲鳴にも似た声が聞こえた。
暗い。ここはどこだ。オレはまた幽霊になってしまったのか……?
夏生……夏生……。泣かせてごめん。プロポーズしたのに、オレ約束守れなかった。
ごめん……。
「直樹? 大丈夫?」
突然耳元で夏生の声がする。瑞樹は顔を上げた。……いや、上げようとした。
おかしい。意識の底に沈んでいるような……。
「ああ。大丈夫。心配かけてごめんね」
自分の声。瑞樹は驚いた。自分で言ったワケでもないのに自分が勝手に話している。
『どういうことだ?』
声に出したつもりの言葉は、意識の中で反響しているだけだった。
『兄貴……』
ふいに聞こえる懐かしい声。
『直樹か?』
瑞樹は叫んでみた。叫んだところで自分以外の人間には聞こえないらしいけれど。
『兄貴、ごめん。少しの間この体、借りる』
『どういう事だ? まさかオマエ……』
『心配しなくても大丈夫。僕にはそんな強い力はないよ。ホントに少しの間だけだから……。ごめん』
「心配したのよ、突然倒れるんだから。大丈夫? 病院行かなくても平気?」
夏生はベンチの上に横たわった直樹を真上から覗き込む。そう、本物の直樹を。
「平気。少しこうしていれば治るよ」
そう言って直樹は夏生を見つめた。
「……夏生さん……大人になったね」
「ええ? 急に何言い出すのよ。ずっと一緒だったじゃない。直樹だって男の子から男の人になったわよ」
「うん……、そうだね。……ね、キスして。そしたらもっと早く治るよ」
直樹は笑って手を伸ばす。
「え……。だって周りに人いるよ? 恥ずかしいじゃない」
「そんなの気にしないで。お願い、夏生さん」
「なぁに? その夏生さんって。いつも呼び捨てなのに」
差し伸べられた直樹の手に導かれるように、夏生は直樹の唇に触れた。いつもと違うキス。思春期の上り坂をただ前を向いて必死に歩いている高校生のようなキス。出会った頃の瑞樹のような……。
「直樹……? 泣いてるの?」
ベンチに横たわったままの直樹の目から涙があふれていた。それは一筋の雫となって落ち、土に染み込む。
「夏生さん……愛……して……た……」
突然
弾かれたように体の自由がきくようになる。瑞樹はガバッとベンチの上に上体を起こした。
「どうしたの、直樹? 突然変なこと言い出して」
心配そうな顔で夏生が見つめている。
「なんでも……ない。大丈夫。ちょっとふざけただけだよ」
瑞樹は直樹の流した涙の跡を手の甲で拭った。
「私達のこと、ホントの直樹クン認めてくれるかしら」
夏生は瑞樹の相変わらずサラサラの髪を撫でて乱れを直す。
「うん。そうだな。多分」
帰ったら直樹のためにピアノを弾こう。アイツが夏生に弾いて聞かせたがっていた曲を。そして直樹の想いの分もオレが夏生を愛してやるんだ。
瑞樹は夏生の瞳を見つめるとキスをした。いつもの瑞樹のキス。
『直樹、ごめんな』
心の中でそう繰り返しながら。